2014年10月12日、「湖国を描く絵画展」会場で、審査員による入賞作品の講評・鑑賞会があった。
開始時刻に遅れてしまい、グランプリを始め注目すべき作品について話が聞けなかったのははなはだ残念だった。
しかしそれでも、作品解説には非常に胸に落ちるものがあり、絵を描くとはどういうことなのか、何に配慮して創作しなければならないのか、また絵そのものと画題の関係など、得るところの多い話を聞くことができた。
以下はその一部だが、印象に残った部分を概略まとめておきたい。
当日の解説は、今回の3人の審査員の一人である黒光茂明さん(日本画家)。
《安曇川の清流》
非常に魅力を感じる作品。流れから見え隠れする石、水底に見える石、そういったもので水の表現をされている。流れというものをどう捉えるか、どういうアングルで描くか。水は右から左へ流れているけれども構図は縦。どこを捉えるか、勢いのいいところなのか、淀んだところなのか、なぜ自分はそこを切り取るのか、掘り下げてほしい。私の考えで言えば、上下を切って横に繋げたほうが流れの勢いが出るのではないかと思ってしまう。
いい仕事ができているがゆえに、捉え方というものを考えてほしい。
また、波頭の白っぽい部分全て同じであること。流れの強いところが白いのか、水しぶきが白いのか、そういうところをもう一つ突っ込んでもらうと面白くなる。
余計なことだが、額も画面の一部。これでいいだろうと手持ちの額にはめられたのか。額のキラキラした装飾は水の流れに呼応していると思われたかもしれないが逆にごくシンプルな額にした方が水のきらめきに目が行く。額が足を引っ張っているなと思った。
《湖北》
作者に聞いてみないとわからないので、問題の植物が繁殖しすぎて困っているという怒りのなのかとも考えた。この緑が何を表現しているのか。
そういったことが、思想的なものを露骨に出すのはまずいけれども、画題に込められていると「そうか」と納得できる表現になる。
絵をうんと横長、うんと縦長、あるいは真四角にするという手もある。そういったことでもずいぶん違う。絵というのは自分の思っていることを他の人に伝える発信だから、独りよがりにならず、発信の手がかりになるものを込めてほしい。
《arche de noel》
不思議な魅力がある。言い訳になるが、こういった展覧会の場合、いろんな作品を評価しなければならない。展覧会の魅力といったものも吸い取って行かなければならない。その中のイラストレーションぽい仕事としていいのではないか。
もう少し実体というか、対象となっている船の、中がどういう状態なのか、雨で船が出ないのかなど、突っ込んだ内容がほしい。
聞かなければわからない題というのは私は基本的に否定的である。「こんなのが読めんのか」というような画題は感心しない。
《菅浦の朝靄》
水墨ならではの不思議な魅力。左の桟橋、霧を描いたときに1メートル四方の霧なのか、1キロ見渡すかぎりの霧なのか、添えられたもので表現できる。桟橋なのか板切れなのかベンチなのかよくわからず、せっかく描くなら説明的にならずにさり気なく。描いてあることによってそこに目が行き、気にはなっても、プラス材料にはなっていない。
《流れてゆく》
アートとしてみるならいい作品だ。今回の展覧会のタイトル中でどうだろうか、そういう観点からなかなか審査員泣かせの作品だった。しかしものがいいので、流れてゆくという画題に救われたところがある。作者の作戦かもしれない。魅力はあるが、全体の展覧会の顔の縛りというものもあるので、非常に悩ましかった。
《春の光》
この船は恐らく使われてない廃船。このメインテーマの廃船は滅びゆくもの、朽ちていく運命のものだ。ところが「春の光」という正反対の題がついてる。何か意図があるのだろうか。そのへん、もう少し掘り下げた画面にしてほしい。
船がそれほど古くない、でも使われていない、そして春の光という題の矛盾。
絵かきは朽ちていくものに魅力を感じることが多いが、意図的に朽ちていくものに仕立てるという手もある。古びた船に見せるため、蔦が絡んでいた方が面白いと思ったらそのようにするのもあり。
また画面上の水のレベルが合わない。水面が3つ交錯するように見える。科学の世界ではないから理屈抜きでやればいいが、その辺が整理されていない。
廃船で面白いなと思って描いて、あとはなにか理屈付けをしたようにも見える。絵を描くということはものの表現。見えたものを描くというのはスケッチの段階であって、意図した絵にするにはこうなってほしい、10年後にどうなるだろう…。そういう発想で絵に向かってほしい。
《山門湿原の秋》
オーソドックスな絵で、淡々と仕事されている。この作家はどこでもいつでもこの程度をかける能力をお持ちだ。きょう見た一瞬の写真的風景を描くのが趣味なら、このままでいい。絵として魅力あるものに持って行きたければ、これに作者の意図を反映させていかなければいけない。実際に見える距離、大きさ、色など、絵を描くには無視をしてもよい。
湿原の部分は遠近感の表現には役立っているが、秋の風景という画面全体を描くならともかく、下半分をなくし、常緑樹が少し見えるくらいで、晩秋の葉っぱをグッととらえてもよいのではと私は思う。実景描写を現場で描くという楽しみのレベルであればもう完成されている。せっかく描くのだからもうちょっと思い入れをしてほしいという気持ちを持つ。
《仰ぎ見る》
素直にものを見て描かれている。いわゆる「絵になる風景」として捉えられているのではないか。むしろ「こんなことを絵にするか」という方が絵描きの眼だと私は思っている。
画面的に水と山を折半した表現になっている。画題が「仰ぎ見る」だが、仰ぎ見るにしては水の部分が多い。
近景の水は取ってしまう、あるいは逆に山を意図的に扁平にして水を多くするとかしてもよい。後者の場合、画題は変わるが。
見えたものを描くというところから制作は始まる。何かに惹かれるから描く。ただ、果たしてこの位置でいいのか、どうすべきなのか、自問自答をこの作者にものぞむ。
《老舗の酒蔵》
朽ちた年月に惹かれて表現されているのだろう。ただ、本当に酒蔵であっても「酒蔵」と書く必要はない。酒蔵と書かれている以上、酒蔵ならではの魅力はどう表現されているのかが問題。
電柱、看板があり、現実っぽくなってしまった。風化した壁とか鉄の扉という右3分の2くらいだけで絵にしたほうがよかったのではないか。
酒蔵なら朝、さかんに湯気が出るだろう。気に入ったということであれば、そこがいちばん活況を呈しているときや暇な時、日々観察をして、朽ちた壁の中で昔からやってる酒蔵ならではの何かを描き出してほしい。かといって目の前に菰樽をおかれては幻滅だけど、酒樽など描かないで「これを絵にするか!」という、あぁこれが酒蔵かと思わせる表現。酒蔵の風月を考えるならそこに絞るべきだろう。
今風の電柱は対比といえば対比だが、歌舞伎役者がサンダルをはいて歌舞伎をやっているのを見るような気分になる。作者の意図でご判断を。
《早春の三島池》
ある種評価の分かれた作品。手慣れたイラストレーションであり、プロフェッショナルな仕事をしておられるのではないかと思う。きのうきょう始めたような人ではない、デザイン関係の仕事でもしてこれらた方だろうか、達者な能力を感じる。
ただ、絵画展という部分では、テクニックとうまさに自己満足されていないか。それでどうなんだ、どう活かすかという部分、達者すぎることがかえってその辺の物足りなさを非常に強めてしまう、皮肉な印象を受けた。